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息子のスマホ依存で自分の目が覚めた#17

前記事で、息子のスマホ依存に意気消沈していると書いた。

でも、そもそも私自身、スマホはもとより現実逃避のために様々なことに依存してきたなぁ…としみじみ振りかえるのだ。

 

テレビに始まり、ビデオ、DVDを病的にエンドレスで観ていた。現実を見ないように味わわないようにするには一瞬も止めてはいけない。

大人になればお酒。お酒に関しては、「アルコール依存」というより晩酌や宴という「お酒を飲む行為そのもの」に対しての依存が強かった。タバコも。

お酒タバコがなくなれば、その座はコーヒーやお茶に代わった。

結婚してからは読書など、一見「良き趣味」に見えるようなことが現実逃避の手段になっていった。

子どもが生まれてからは、当時のガラケーで子供の写真を撮り、ひたすら記録に没頭した。子供の存在と自分の存在がイコールになってしまっていたから、子供の記録をどれだけきっちり残すか⁉が私の人生みたいになっていた。

 

そうは言っても、当時はひたすらやっていただけで楽しかったのも事実なのだ。

でもそのうち苦しくなってきて「あれ?おかしい…」となる。楽しくて始めたはずが、全エネルギーをかけて記録をし、いつのまにか「記録を残すために生きている」状態になってヘトヘになっていた。

 

自分の依存遍歴をたどる際欠かせないのが、この「書く」「記録する」という行為。

日記、日々の雑記、備忘録…

今まで様々なノート術、手帳術を実践してきた。

既存のノート術では行き詰まり、オリジナルのフォーマットを作り大量にプリントしてパンチ穴をあけリングファイルに綴じたり…試行錯誤した。

 

既存のノート術に魅力的なものはたくさんあるが、「これ!」という完全版はない。

ノートするのが違う人間である以上、ノート術のベストなカタチというのは書く人のオリジナルでしかありえない、というのが現状の私見だ。

 

この事と息子のスマホ依存の話はどう関係するのか。 

息子のスマホ依存に対して苦々しい気持ちが最高潮に達したころ、そのことにより私が虚無感に飲み込まれ、私自身もYouTubeがやめられないという本末転倒な状態になっていた。

息子の現状に向き合えば向き合うほど、私は私に向き合うことになった。

そして、自分こそがYouTubeでスピリチュアルや、自己啓発の動画依存なのに、息子云々言えないよな、と内心わかっていた。わかってはいても変われなかったのは私なのだとはっきり気づいた瞬間があった。

「生きていない」ことを認めることとなった。

スピリチュアルも自己啓発も「生きるため」「よりよく生きるため」のものだ。

 

私は昔から自分がよりよく生きるために「書く」という行為をしたかった。でも強迫観念が強いあまり「書き方」に囚われ、いつも苦しんでいた。最終的には「思うように書けない」ということで生きる気力すら奪われていた。

“たかが一般人の日記、雑記になにをおおげさな…”と思われるだろうが、私にとっての事実だ。

 

「一番いい書き方」を探し求め試行錯誤することに燃え尽きてしまい、自分の生活の中から「書くことへの執着」を断捨離したのが去年の8月。

日記やそのほか記録することへの執着を手放せたことでの解放感は想像を超えるものだった。心が軽やかになったし、いつでも頭に「記録すべきこと」が渦巻いていたのがなくなり平安だった。でも、好きなことであったはずの「書く」ということが私の元から姿を消した寂しさはずっとあった。

 

日記をやめて一年たった今月。スマホ(ネット)との付き合い方を見直した時、やはり自分の生活は書く行為とともにありたい…と考えている時に出会ったのが「バレット・ジャーナル」だ。

このノート術に本当に感動した。

私が長年苦しんでいたのは一体何だったんだ?と呆気にとられてしまうほど。

前述したように、既存のノート術に完璧はないと思う。そこはやはり自分なりのカスタマイズが必須なのだ。

そのことを差し引いても「バレット・ジャーナル」の素晴らしさは余りある。

 

バレットジャーナル 人生を変えるノート術

バレットジャーナル 人生を変えるノート術

 

 

 

 

息子のスマホ依存をきっかけに、私自身のスマホとの関係を見つめることになった。息子ではなく、私こそ現実逃避をしていることを認め、生活を整える決意をした。(「生きる」ことを決意した)

やっぱり息子は最強の恩人だ。(苦しいから最初からそうは思えないけど)

他人がどんなに現実逃避していてもそれほど心は波立たないもの。

 

 

読んでくださりありがとうございます。